【法務(1日目)】格好つけるものでもない(新アプリ法務ハンドブック)

 

 

初めての入社日、零は朝会での挨拶を終えていた。

零は、月並みに「不慣れなことも多いかと思いますが」という挨拶をしながら、「将来、振り返った時に、このビジネスを加速するメンバーであったと思われる人でありたいです」と、少しだけ挑戦的な発言も付け加えることで挨拶を終えていた。

 

 

人事の方も自分の隣から席を離れて、

自分の席に戻っていった。零は、ひとりとなって、自分の居場所がなくなったように感じ、それをつくろうかのようにiPadを取り出した。増田雅史さん、杉浦健二さん、橋詰卓司さんの3名が執筆された「新アプリ法務ハンドブック」という本を読もうとした。

 

この本は、零の友人である別のアプリ系法務担当者である山田さんに紹介してもらって購入したもので、山田さんは「僕の経験なんてまだまだ拙いのだけど、この本は、僕のやってきたことのうち、アプリ系の法務担当してやってきたことが結構網羅されていると思ったよ。しかも、実務を担当している方が執筆されたからこそ、記述が具体的で、法律上の根拠もしっかり記載されているし、偉そうだけど、実務上の要点を抑えられていると思う。何より、ポイントを抑えた記述にリードしてもらうことで、無用な法令調査を避けることができると思うんだ。」とお薦めしてくれた。本書のまえがきにも「本書は、アプリ事業にまつわる法務トピックを広く扱いつつ、事業の進捗に合わせた各段階で参照しやすいように情報を整理し、文字どおりのハンドブックとして日々の業務に際して気軽にご参照いただけるよう制作されています」(同書まえがきⅱ)とある。まえがきの末尾にある「本書がアプリ事業に関わる皆様の一助となり、ひいては我が国におけるアプリ法務発展の一助となりましたら幸いです。」に励まされながら、零は、この書籍を読み始めた。

 

この書籍で取り扱われる法令の一部として、凡例に記載されているのは、下記のようなものであった。

デジタルプラットフォーム取引透明化法/DPF透明化法

取引DPF消費者保護法/取引DPF

消費者裁判手続特例法

電子商取引準則

個人情報保護法

特定書取引法

資金決済法

出会系サイト規制法

青少年インターネット環境整備法

児童買春・児童ポルノ禁止法

景品表示法

プロバイダ責任制限法

 

メーカー法務を担当してきた零は、そもそも法律名を聞いたことがあるというのがやっという法律も並んでおり、学習の必要性を感じた。そのまま目次を開くと、次のようなことが書かれていた。

第1部 アプリ開発フェーズの法律知識

第1章 アプリ開発前に知っておくべき契約・権利保護の基礎
Ⅰ 法律・契約の基礎と、アプリ法務の全体像
Ⅱ 知的財産権の保護

第2章 アプリ開発にあたり確認・締結が必要な文書とルール
Ⅰ デベロッパー向け規約
Ⅱ デジタルプラットフォーム取引透明化法

 

第2部 アプリ提供フェーズの法律知識

第3章 アプリ利用規約
Ⅰ アプリ法務において考慮すべきアプリサービスの特徴
Ⅱ アプリ利用規約とは
Ⅲ アプリ利用規約に関する近時の重要トピック
Ⅳ アプリ利用規約のサンプルと解説

第4章 アプリプライバシーポリシー
Ⅰ アプリビジネスとプライバシーポリシー
Ⅱ アプリ配信にプライバシーポリシーが必要となる理由
Ⅲ プライバシーポリシーに関連する法律の主なトピック

第5章 いわゆる「特定商取引法に基づく表示」とは
Ⅰ 「特定商取引法に基づく表示」の概要
Ⅱ アプリ提供時に気を付けるべき特定商取引法上の規制の概要
Ⅲ 「特定商取引法に基づく表示」の具体的記載内容

第6章 いわゆる「資金決済法に基づく表示」とは
Ⅰ 「資金決済法に基づく表示」の概要
Ⅱ アプリ提供時に気を付けるべき資金決済法上の規制の概要
Ⅲ 資金決済法に基づく表示

 

第3部 アプリ運用フェーズの法律知識

第7章 アプリ提供者に課されるユーザー保護規制
Ⅰ 未成年者による取引を保護するための規制
Ⅱ 出会い系・非出会い系サービスの利用者を保護するための規制
Ⅲ アダルトコンテンツ規制
Ⅳ ゲームサービス規制
Ⅴ 違法な情報による被害者を保護するための規制
Ⅵ プラットフォームを利用する消費者を保護するための規制
第8章 広告・キャンペーン・マーケティングに関する規制
Ⅰ 広告表示に関する規制
Ⅱ 景品類の提供を含むプロモーションに関する規制
Ⅲ 広告手法ごとの規制や留意点

(参照:新アプリ法務ハンドブック | 日本加除出版

 

およそ、1章あたり40ページ程度で構成されていたので、1日1章程度読むのがちょうどいいかなと思いつつ、零は、「第5章 いわゆる「特定商取引法に基づく表示」とは」と「第6章 いわゆる「資金決済法に基づく表示」とは」の箇所を、自社のWebページの記載と照合しながら読んだ。法律的な背景を知りながら、実際の成果物をみるのが、零にとっては一番勉強になった

 

 

目次を読んでいた矢先、slackのランプが点滅した。

「零さん、ご入社ありがとうございます。法務担当者のご参加お待ちしておりました。早速なのですが、11時からミーティングの場を設けさせていただきました。関係資料を共有させていただきますので、事前に資料を一読していただけると嬉しいです。」というコメントがきた。時計は10時30分を指している。30分しか残されていない。零は、とりあえず、一読して、会議に望んだ。入社初日だし、年末も近い。挨拶程度で終えるだろうと思っていた。

 

 

会議に参加されたのは、第1営業部の安井さんという方だった。

彼女は、slackで送られてきた内容と同じく、法務担当者の参加を望んでいたことをさらっと述べた後「早速ですが」と言って、事案の概要を説明し始めた。零は、安井さんが話されたことをメモして、法務担当者らしく振る舞おうとした。一通りの質問を終えたタイミングで、一瞬間があり、その後「何か他に質問はありますか」と聞かれた。零が「今のところ、質問はないです」と答えると、安井さんは「そうしたら、早速、契約書の作成をお願いしたいです。私としては、年内には契約書の送付を終えてしまいたいのですが、問題なさそうですか」と聞いてきた。

 

 

「は…はい」

朝会でスピードを意識した発言をした手前、格好つけてしまったのかもしれない。また、安井さんの迫力に押されて、承諾してしまったのかもしれない。思い返した零が「あ…」と言いかけた時には、ウェブ会議はOFFにされてしまっていた。

 

 

どうしよう、入社初日からやらかしたかもしれない。

 

 

時間が迫っている時こそ、伝えるのが嫌なことでも事実を伝えなくてはならない。

零は、電話することからだけは逃げて、「先ほどはありがとうございました。先程の業務委託契約書の件ですが、本日入社したばかりで、正直なところ、雛形がどこにあるか分からない状態です。また、当社が提供しようとしている見積書や作業期間などの状況も知らないと、契約書がかけません。そのため、本日中の提供は難しいかと思います。先程の発言とは異なり、大変申し訳ございません」。零は、素直に必要な事実のあることとお詫びをした。安井さんは「私こそ、先程はお時間ありがとうございました。業務委託契約書は私も来年でいいと思っていて、ただ、先方には、当社が前向きであることを伝えるためにも、秘密保持契約書を投げてしまいたいのですよね。まだ、会社の簡単な会社概要をお伝えしたのみで、具体的な商談はこれからです。それであれば可能ですか」と聞いてきた。零の気持ちは「☼キー」を10回押したかのように晴れた。「それであれば可能です!」と回答し、零は、総務部に契約書雛形が格納されたフォルダの所在を確認した。零は、先日読み直したなかりの秘密保持契約の実務(第2版)を思い出し、参照しつつ、安井さんに対して、「最後、ここだけは教えてください!」と聞いて、なんとか秘密保持契約書の作成と提供を終えた。

 

 

”とりあえず”読んでおこうとだけ思った自分を零は恥じた。